ベートーベンのピアノを製作した女性
ナネッテ・シュトライヒャー(Nannette Streicher)の名前はあまり知られていませんが、ベートーベンの身の回りの世話をしながらも、ヨーロッパで最も優れたピアノ製作者のひとりでもある彼女に関する記事。
1769年生まれのナネッテは、8歳のときモーツァルトの前で演奏し、モーツァルトは彼女の姿勢と顔をしかめることを批判しましたが、彼女には才能があることを認めました。
その後の彼女は父親の建築技術の多くを習得し、23歳で結婚したナネッテは、ウィーンでピアノ制作事業を立ち上げました
そのころベートーヴェンは、当時ピアノがまだ開発が進んでおらず、ハープのように聞こえすぎると不満を述べていて、プレスブルグ(現在のブラチスラバ)での1796年のコンサートのために彼女のピアノの1つを借りるように頼みました。
ただ、軽いタッチと銀色の音色を備えたエレガントなスタインピアノは、ベートーベンのワイルドで力強い演奏スタイルには理想的ではありませんでした。
聴力の低下に気づき始めたベートーベンはダイナミックな演奏に対応するピアノを見つけることに関心があり、1803年にフランスのエラードを購入しましたが、彼はますます野心的な曲作りのためにストライヒャーに圧力をかけるのをやめませんでした。
1809年までに、ナネッテはデザインを大幅に作り直し、ストライヒャー・シュタイン(Streichernée Stein)社を設立、ウィーンで最も大きく、最も頑丈なピアノをいくつか生み出しました。年間50〜65台のグランドピアノを生産する倉庫を備えたストライヒャー社は、多くの人から市内で最高の会社と見なされていました。
その頃ベートーベンは60通以上の手紙をナネットに書き、洗濯物の世話をし、靴下を修理し、掃除、靴磨き、食料品を買うように願い出て、彼女は彼の家事をするようになりました。彼女が家事を引き受けることによりベートーベンは作曲に集中できるようになり、偉大な作品を生み出すことになります。
その当時のベートーベンは、ブロードウッド社のピアノを使用していましたが、1809年以降のナネットのピアノがが常に彼のお気に入りであったと手紙で打ち明けています。
ストライヒャー社は、息子のヨハネスバプティスト、そしてブラームスのためにピアノを製作した孫のエミルの下で繁栄し続けました。エミルが引退した1896年に会社は閉鎖されました。
ナネットはベートーベンより5年長生きし、1833年に64歳で亡くなりました。
ピアノソナタ『ハンマークラヴィーア』の余白には『最も古く、最も誠実な友人』として彼女の名前が記されています。愛していたのかもしれませんね。